人は忘れることによって癒される。大切な人やものを失ったことを私自身に理解できるはずもないが、ある程度の時間を経てそれ以外の身の回りの出来事が増えるに従って一日中頭の中を占領していたものが取れていく事によって、少しづつ癒されていくのであろう。
地震についてその記憶が徐々に薄れていく事に伴い、建築物や構造物の耐震的な関心について一般的な人が注目が薄れていく事は当然のことであり、健全な精神を維持していくためには必要不可欠なことであると思う。
しかし専門家に限って言えば、それを忘れることは許されないことである。
震災を経て建築物や構造物に対して解決が難しい命題の一つが「建物被害をどの程度に押さえることを施主は期待しているのか?」という事であろう。これは、「被災後のライフラインや設備の健全度についてどのくらいを期待しているのか?」と合わせ、震災後の生活をどのように戻していくかという事に関連する重要な事であり、その判断は難しい。
身近な例として建物を乗用車に見立てて考えてみる。乗用車には軽自動車からファミリ−カー、高級車まであり、目的地まで人を運ぶという同じ用途を担っているが、それに付随する付加価値(たとえば静かであるとか、衝突時の安全性が高いとか、お金持ちに見える?とか、かっこいい形であるなど)には大きな差がある。人は自分の懐と付加価値として何を求めるかという嗜好を加味して自分の欲しい車を選ぶ。人によっては自分で運転するよりもタクシーを選んだり、お金が足りなくてバスを利用したりするわけだが、このような乗用車を取り巻く状況に建物を置き換えて考えると、前出の命題についてそれぞれの答えが得られると思う。
ここで注目したいのは、答えは一つではなくそれぞれで違うという事である
殊に住宅については各家庭それぞれで事情が違い、また時間を経ても状況が変わって行く。子供がいる家庭ではやがて大人に育つであろうし、徐々に年を取っていく自分がある。これが車であったなら何かの機会で替える事が出来るだろうし毎日使わない人もいるが、住宅では多くの人が多くの営みをそこで行い、毎日付き合っていくものである。住宅を引っ越す事も一大事である。このようなことを踏まえて、建物被害をどの程度に押さえるか、またそれに備えるかという事は一様ではない。
ひとたび衝突事故が起きたときの搭乗者の安全は随分な差があるものであり、これと建物被害は同じようなものであると思う。
法律でもその辺の事が加味されてきて、今までの大衆車の安全基準(仕様規定)を、消費者の要求と供給者の間で適切な評価と取り引きを行えるように変化させたものが性能規定化であると思う。この裏には有事の責任の所在について曖昧であったものを、施工者や生産者との間で結んだ契約の下に一定の責任を認めるものであるという事を忘れてはいけない。
消費者としては、選択の幅が広がった事に他ならないが今まで以上に住宅に対しての自分の要求や嗜好について整理する事が望まれる。
研究者としてできることは、耐震性向上の技術開発の他に、経済性との関係の見極めや対震安全性についての啓蒙活動を続ける事でしかないと考えている。