昨年度に架け代わった新しい「かっぱ橋」である。ぱっと見たらほとんど同じように見える綺麗な仕上がりである。
構造は全て角型鋼管を溶接でつなげた鉄橋で、手摺と床板だけが輸入された木材(イペ)である。一見本体は木の様に見えるが、これは表面に樹脂を塗り油絵のように凹凸を作りながら木材の表面を似せた塗装の一種である。
よく公園などで見かけるコンクリート製のぎぼく(偽木?、擬木?)と同じく、木材のように見えても似て非なるものである。自然の樹木は、太陽光を葉に効果的に受けるためや、外的障害物を避けるため、強い風や斜面に立つ必然性などから、自らの形をそれぞれに変えて、一本一本違う形質を持っている。この構造体は人間が考えた合理的なトラス構造ではあるが、木材自体がこのような入り組んだ接合部を持つ構造を作り出したものではない。でも見た目は木であり、自然に生えている木の形を知っているものにとっては奇異に映ると思う。少なくとも私にはそう見える。
合理的形態と身勝手な耐久性を実現し、その上、木材らしさを満足したこの橋は良く出来ている。
しかし心配したいのは、このような構造を奇異に感じない人が増えることであり、次世代の技術者のほとんどがそのような人になってしまうことである。
本物のようであって本物でない「フェイク」は、よくファッション分野で話題になるが、偽物は本物の価値の一部を模したものであり、やはり本物ではないのである。本物を模した「フェイク」ではなく、高度な人工物として見れば立派な本物なのだが、そうではない価値を求めるのは人間の身勝手ではなかろうか。
「本物は高くつく」場合が多いが、それはモノに感謝して大切に使わなくてはいけないことを判らせる外的要因の一つと考えれば、立派な教育効果を持つ。安ければ直ぐに手に入り、要らないときには直ぐに捨ててしまう。まさに安直である。
便利を追求して来て現代の社会が快適になったが、大切なものを失っては居ないか考える機会を、循環型社会という言葉が教えているように感じる。