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関西支所は,1947年4月1日大阪営林局(大阪市)内に林業試験場大阪支場として創設以来,今年で60周年を迎えることが出来ました。ついては,下記のとおり記念講演会を開催いたします。これは,私どもの研究所における研究成果を広く一般の方々に知っていただくための催しです。どなたでもお気軽にご参加下さい。(予約不要,入場無料)
「森林の研究を過去から未来へとつなぐ」
森林総合研究所関西支所長北原英治
国民森林会議会長/名古屋大学名誉教授只木良也
地球陸地には、極端な乾燥地から十分に湿潤な地域に向かって、砂漠→草原→サバンナ→森林、という地表状況の系列があるが、森林成立の条件を持つところは陸地面積の1/3(現況は1/4、約40億ha)である。その中でわが国は、全国土降水量が多く(平均>1,700mm/年)、国土の2/3(2,512万ha)を森林が占め、これは先進国随一である。ただし、国民一人当たり2,000m2(世界平均の1/3)。
植生が自然に移り変わる現象を遷移、その順序のことを遷移系列という。例えば乾燥地では、裸地→地衣・コケ→一年生草草原→多年生草草原→陽性低木林→陽性高木林→陰性高木林。そしてその終着相のことを極相といい、気候、土壌などで決まり、わが国では森林にまで至る。
遷移は、人間の土地利用活動の上で、重要な意味を持つ。例えば、農業や畜産業は遷移を抑制する技術、人工林施業は遷移短絡の技術、造園・緑化産業は「竣工」が後の遷移を誘導あるいは制御する出発点なのである。自然保護にも遷移の考えは不可欠で、その手段(保存、保全、防護、修復、維持)の選別適用は遷移の原理の応用でもある。そっとしておく(保存)だけで、遷移途上の自然は維持できないことを、草原、特定種、二次林などでの失敗例で紹介する。
アカマツ、クロマツは、日本人の生活や文化と不可分の関係にあった。わが国におけるマツ林の歴史的な盛衰の経過と日本人の活動との関連性を、上記遷移論を軸として考えてみたい。すでに多種木材の用途別使い分けが見られた福井県鳥浜遺跡(6500年前)、大量のスギ材を使った稲作集落で著名な静岡県登呂遺跡(2000年前)などで、マツの使用は認められず、邪馬台国(1800年前)の植物を列記した魏志倭人伝にもマツは現れない。つまり、先史時代にはマツは目立った存在ではなかった。しかし、大阪府泉北丘陵の陶器の窯群の燃料は飛鳥時代(7世紀)に照葉樹からマツに代わり、マツを詠んだ和歌も増え、人間活動の活発化とともにマツが進出してくるようになる。「お爺さんは山へ柴刈りに」が象徴するように、「里山」は農地(肥料)と農村(燃料)、さらに都会(木材)を支えたが、文化の進展とともに人間の収奪は激しくなり、里山の地力は低下して、遷移は陰性高木林(極相に近い)から陽性高木林(マツ林)へ逆行した。長年の収奪は、遷移進行を妨げ(マツ林維持)、収奪過剰のところは禿山(裸地)へと、さらに逆行した。マツは日本人の森林酷使の生き証人なのであった。こうした里山利用が、マツ林をわが国の代表景観と成してきたが、昭和30年代の化学肥料・石油燃料の進出は、里山の収奪を無くし、里山は肥沃化して遷移が進行、それに全国的に拡大したマツ枯れ病が拍車をかけ、マツ林は衰退しているのが現状である。マツ林の復活はあるか?
元森林総合研究所長/秋田県立大学名誉教授小林一三
マツも生き物、さまざまな原因でいつかは必ず死ぬ。従来からの各種の病気や虫害、風雪害、山火事、被圧、人為伐採など。これらとは異なる原因不明の集団的、劇的なマツの枯死現象。日本で始めての、世界的にも例を見ない不思議な現象。
枯死したマツの樹皮下にはさまざまな昆虫が生息するので、1970年までは昆虫研究者が対応。樹皮下昆虫(カミキリムシ、ゾウムシ、キクイムシの類)のすべてが二次性昆虫であることを解明。昆虫が直接的にマツを殺すのではない、ムシが付く前にマツはヤニ滲出を止めている・・・森林総合研究所の多様な分野の研究者の参加する特別研究へ発展。
樹病研究者がマツノザイセンチュウが元気なマツを衰弱・枯死させる病原体であることを発見。この線虫は枯死木で増殖しても自ら新しい健全:マツに移ることは出来ず、マツノマダラカミキリに運んでもらうことによって伝播することも判明。
線虫がマツを枯死させる事実は世界の森林病虫害研究者の関心を引き、世界的な研究ブームが起きた。マツノザイセンチュウは北米大陸に昔から生息していることが判明(後ほど雄DNA分析でも裏づけ)。この線虫は故郷のマツ類を殺さない。新天地に侵入した外来生物として日本では強烈な病原力を発揮。
台湾、中国、韓国、およびポルトガルの松林にも「マツ材線虫病」が発生。
太平洋戦争中、戦後の混乱期に関東以西に拡大、総被害量が100万立方米を超える大発生となった。被害木の利活用やGHQの指導によって1950年代には30万立方米台に減少。
その後、燃料革命や農業近代化などの影響で人の生活と松林との関係が希薄になるに連れて被害量の増加・拡大。1970年代、枯損メカニズム解明・新防除法開発の後にも被害は拡大。1978年・79年の2年連続の高温・少雨を契機に未曾有の大発生へ。20年におよぶ特別措置法など国を挙げての防除努力などにより、次第に減少傾向になって2006年の被害量は64万立方米。
高緯度・高海抜地で新たな被害の発生・増加の傾向。
主任研究員(森林環境研究グループ)細田育広
竜ノ口山は岡山駅の北東約7kmに位置する都市近郊の山稜です。東西に延びる山域には古墳群が散在し、北峰頂上には天平勝宝年間(8世紀中頃)勧請と伝えられる龍之口八幡宮が祀られるなど、古くから歴史にその名が登場します。この山で森林と水流出の関係を調べる森林理水試験が始まったのは、従来から農業用溜池の水不足の原因が集水域に繁茂するアカマツ林の水消費にあるとしてきた地元民の声が、1933(昭和8)年の大干ばつで大きく拡大したことに端を発します。この問題を当時の農林省山林局は保安林政策上の大きな問題として取り上げ、同年11月に国立林業試験場(現森林総合研究所)嘱託・平田徳太郎博士を調査に向かわせました。その復命がマツ林の繁茂と溜池水不足の因果関係を否定したことから、森林の水源かん養機能について岡山県山林課・山本徳三郎技師との3年に及ぶ論争が始まりました。論争が平行線のまま経過する中、平田氏指導の下、アカマツ老壮齢林が繁茂する竜ノ口山の二流域(北谷・南谷)で水文・気象観測の準備が進められ、1937(昭和12)年に主要な観測を開始して今日に至っています。
当初の計画では、南谷はアカマツ林を段階的に伐採して無立木地化、北谷は適切な施業を通じて健全な森林に誘導して比較観測する予定でした。これにより当地方のマツ林の理水機能が明らかになるはずでしたが、当時兵庫県に発生した松枯れが1940年9月には竜ノ口山に達し、試験流域内のアカマツは1947年までにすべて伐採除去せざるをえなくなりました。その後、北谷では天然更新、南谷では植栽によりマツ林の再生が試みられています。しかし、1959年には南谷の植生が林野火災で焼失、1970年代には残存アカマツと植林したクロマツに再び松枯れ被害が生じて1981年には全滅するなど、植被状態に不測の変化が繰り返し生じてきました。このように竜ノ口山は、理水試験地としてはままならない経過を辿りましたが、 振り返れば、その都度水流出への影響を明らかにすることで、この地域における森林と水流出の関係を解明する機会にしてきたといえます。
現在、竜ノ口山一帯は岡山県のグリーンシャワー公園として整備され、都市近郊の里山として風致的性格を強めています。このため今後、現存の森林は自然に成熟を深めていくと伴に、一部では施業により樹種構成や林分構造、流域内での植生の配置が変化していくと予想されます。また近年、気象現象の年々変動の幅は拡がる傾向にあります。これまでの観測では得られなかった多様な植被条件、極端な気象条件における水流出の実態が今後の観測で明らかになる可能性は大きいといえるでしょう。一方、気象条件の年々変動を考慮すれば、植被条件がほぼ同じ状態での観測を数年以上継続し、水流出の傾向を得ることが森林の理水機能を評価するために必要です。様々な植被条件・気象条件に対応して水流出の実態を正しく評価できるよう、今後も継続的な観測に取り組んでいきたいと考えています。
主任研究員(生物多様性研究グループ)高橋裕史
衣食住の根幹を担う農業と林業。水や大気の浄化・涵養をはじめ様々な機能を果たしてくれる森林の保全。これらは私たちが生存するうえで欠くことのできない営みです。ところが、野生動物による農林業被害や森林生態系の改変・衰退が、各地で深刻化しています。この講演では、森林への影響が大きいとされるニホンジカ(以下、シカ)の生物学的特性について、長期にわたる追跡によって明らかになってきた最近の話題を紹介し、今後の人とシカとの関係について考えたいと思います。
北海道の洞爺湖、その中央に浮かぶ中島には、1957~1965年の間に人為的に持ち込まれた3頭に由来するシカの集団が生息しています。ここでは、1980年以来、生息数と植生の関係が追跡されているほか、生体捕獲法の開発・改善や、生息数調査の正確さの検討などが行われてきました。良好な条件下で増加したシカは、餌植物を食べ尽くして餌不足に陥り、厳冬の1984年に大量死が観察されました。その後、植生は回復することなく、シカの成長も遅滞しているにもかかわらず、新たな資源に餌を転換して再び増加、その代替資源の枯渇によって暖冬に2度目の大量死が記録されました。これらのことは、餌の供給低下が一時的にしろシカ生息数の減少をもたらしたこと、シカの餌利用は非常に幅広く繁殖力も高いことが明らかになりました。
他地域の状況をみると、造成草地や緑化工、伐採跡地や風倒跡地など、人為か自然化にかかわらず、草本層の繁茂がシカに餌を供給することが指摘されています。林冠開放がシカの餌を供給するならば、林業は今後もシカを増やす要因であり続けることになるでしょう。もともと動物の生息地を開墾して始められた農業もまた、消化が良く栄養価の高い植物を栽培する以上、動物を誘引し続けることになるでしょう。防災上や景観上、緑化が必要な場所もあるでしょう。人は有史以前から野生動物を資源として利用してきた一方で、農耕開始以来害獣として攻防を続けてきました。防ぐべきところは防ぎ、再生可能かつ豊富な資源として利用する、大型獣の存在を前提とした農林業の再構築とともに、国土利用の一環として野生動物の管理・森林保全を進めるべき時期を迎えているといえましょう。
<平成19年4月1日,(独)森林総合研究所と(独)林木育種センターが統合し,新たに(独)森林総合研究所が発足しました。新生,(独)森林総合研究所の近畿・中国地域における二つの拠点,関西支所と林木育種センター関西育種場の組織と活動の概要についても会場でパネルにてご紹介いたします。>
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